重要文化的景観「大溝の水辺景観」

更新日:2023年03月31日

 市内で3か所目の重要文化的景観に選定された「大溝の水辺景観」は旧高島町内にあり、天正6年(1578)、織田信澄(おだ・のぶずみ)によって整備された大溝城跡および城下町、町並みを走る水路、琵琶湖の内湖(ないこ)である乙女ヶ池、乙女ヶ池沿いにある打下(うちおろし)集落の水面利用の伝統的集落景観などを含む、約1384.1ヘクタールを選定範囲としています。
 大溝の水辺景観は、中・近世に遡る大溝城とその城下町の空間構造を現在も継承する景観地であり、琵琶湖と内湖の水、あるいは山麓の湧水を巧みに利用して営む人びとの生活や生業によって形成されてきました。

大溝の水辺景観図

大溝の水辺景観の場所性

環境

 大溝の集落は、比良山地と琵琶湖との間に展開する高島平野の南端に位置し、琵琶湖北西岸にせり出す明神崎の北側に展開しています。
 地域の南部には、湖岸砂州により琵琶湖と隔てられた内湖の乙女ヶ池が広がり、西方の山麓で営まれる水田での田越し灌漑(かんがい)を経由した水が流れ込んでいます。マツモやマコモなどの乙女ヶ池に群生する水生植物は、昔から畑の肥料や家畜の飼料などに利用されてきました。
 古来より大溝は交通の要衝であり、古代の北陸道が通るとともに、湖上交通の拠点として知られた勝野津にも比定されています。

大溝城と城下町

 天正6年(1578)、織田信長の甥にあたる織田信澄は、長浜や安土と同様に内湖を天然の水堀として利用した大溝城と城下町を建設しました。同時に、西側山麓を通っていた街道を城下へ付け替え、大溝湊の整備を行いました。
 大溝城の北西側には侍町及び町家を配置するとともに、乙女ヶ池東側の砂州(さす)上に展開する打下地区には、平時は舟運や漁ろうに携わり、戦時には水軍に転換する集団を配置しました。

 さらに、元和5年(1619)に大溝藩主として入部した分部光信(わけべ・みつのぶ)は、大溝城跡に陣屋を置くとともに、城下には武家地町人地を設けました。武家地は堀と塀で囲まれ、やや規模の大きな地割りとされたのに対し、町人地は間口が狭く奥行きの深い短冊形の区画割りとされ、通りの中央には水路が敷かれました。
 また大溝湊を現在の規模まで拡張するとともに、西側山麓には分部氏の転封に伴って移転してきた寺院が配置されました。
 その後、明治時代初期に蒸気船が就航し、昭和2年(1927)には鉄道が敷設されるなど、大溝を取り巻く交通事情は時代とともに変化しますが、旧街道に沿って宅地が細長く連なる集落構造は、現在も受け継がれています。

形の異なる石が積み重なった石垣が残ってる大溝城跡石垣の写真

大溝城跡石垣

正門の扉の左右に部屋を設けた長屋門形式の大溝陣屋総門の写真

大溝陣屋総門

内湖とともにある暮らし

 大溝地域のなかでも、琵琶湖・内湖の両方の水域に面する打下地区では、琵琶湖をウミ/内湖をセドウミ又はウラウミと呼ばれます。
 琵琶湖側には高波・浸水防止のため身近にある石材で石垣を築き、ところどころに切れ目を設けて琵琶湖への通路を確保しています。また湖岸の浜ではハシイタと呼ばれる桟(かけはし)が琵琶湖に突き出しており、各戸の洗い場として利用されました。
 また内湖は、農業排水や生活排水が流れ込むため栄養が豊富で、水草が育つのに適しています。内湖には水田地先の個人が所有する区域のほか、水草の刈り取りを入札で決定していた村有の区域などがあり、内湖の共同利用の様子がわかります。

町並みを走る古式上水道

 旧町人地では、近世に遡る2系統の古式上水道が現在も利用されています。
 このうち、水源地と高低差がない勝野井戸組合では、埋設した水道管を通じて各戸に配水しています。一方、山麓に水源地を持つ日吉山水道組合では、水道を地下に通しつつ、ところどころで分水のためにタチアガリと呼ばれる施設を作り、各戸に水を引き入れています。
 このように上水道の維持や管理に関わる作業は、同じく近世にまで遡る曳山行事などとともに,地域共同体の結び付きを維持する機能を果たしています。

乙女ヶ池が広がり、後方に住宅が建ち並ぶ打下集落を写した写真

乙女ヶ池と打下集落

通りに面した間口が狭く、奥行きの深い短冊形で路地の中央には石積みの水路が通っている写真

町割り水路

 重要文化的景観 大溝の水辺景観の公式ホームページは下記リンクをご覧ください。

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