清水山城館跡(しみずやまじょうかんあと)
清水山城の位置
(写真)清水山城主郭(しゅかく)からみた日の出
清水山城は高島市新旭町熊野本・安井川に所在します。高島市の中南部は、安曇川(あどがわ)や鴨川によって形づくられた広々とした平野が広がっています。この安曇川の北岸の西方に饗庭野(あいばの)と呼ばれる標高約200メートルのゆるやかな山々が広がっていて、その南東に清水山城は位置しています。
饗庭野のふもとには、西近江路が南北にのびていて、南方には湖西最大の大河である安曇川が流れています。清水山城は、安曇川~琵琶湖の水運と陸路が交わる「陸路・湖路」の「要」の地点にあったといえるでしょう。
清水山城は戦国時代のお城を見るうえで大切な遺跡として、清水山城遺跡、清水山遺跡(清水寺・屋敷地)、本堂谷遺跡(大宝寺・屋敷地)の範囲が、清水山城館跡(しみずやまじょうかんあと)として平成16年2月27日に国史跡に指定されました。
清水山城と西佐々木一族
『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると、嘉禎(かてい)元年(1235年)に、佐々木信綱(ささきのぶつな)の二男、佐々木高信(ささきたかのぶ)が高島郡田中郷の地頭(じとう)になりました。この近江源氏 佐々木氏の一族は、越中、朽木、田中、能登、横山、永田、山崎、平井などの家々にわかれ、戦国時代を通して高島郡一円に勢力をひろげました。
のちに西佐々木氏ともよばれるこの一族は、当時の古文書に「七佐々木」、「西佐々木七人」、「高島河上七頭」、「七頭」として名前が見えます。また、江戸時代に書かれた地誌『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』は、「清水山」にあった城跡を、西佐々木一族の本家の佐々木越中氏(ささきえっちゅうし)の城と記しています。
現在、この清水山城の主郭(しゅかく)(中世の山城の中心地)からは、室町(むろまち)時代に佐々木越中氏が支配していたとされる安曇川下流域一帯を見わたすことができます。また、ここからは琵琶湖、竹生島や天候などの条件がよければ対岸まで見ることができます。
「清水山」の名称について
現在、「清水山」の名前は使われていませんが、城のふもとにある平井の集落に残る江戸時代の古文書には「清水山」の名前が記されていることから、当時、饗庭野は「清水山」と「熊野山」に分けられていたことがわかってきました。
また、現在のところ「清水山」の名前は、文禄4年(1595年)の古文書に初めて見えます。この古文書には豊臣氏(とよとみし)が支配するため、地元の領主や有力者が住んでいた土地や支配していた土地、交通や流通など#65378;要#12301;となる土地が記されています。この中には「大溝城山」とともに「清水山」も名前も見られます。このことから城がなくなった後も「清水山」の土地が重要視されていたと思われます。
西佐々木一族の地位と性格
清水山城の城主と推測されている佐々木越中氏は、ほかの西佐々木氏の一族ともに、鎌倉時代には「在京人(ざいきょうにん)」、室町時代には「奉公衆(ほうこうしゅう)または外様衆(とざましゅう)」と呼ばれる将軍の直轄軍ともいえる身分にあり、幕府と強いつながりをもっていました。
一族は16世紀のはじめに北近江にあったとされる十二ケ所の関の関守(せきもり)として、その名が見られることから、米づくりなどができる平野の支配だけでなく、陸路や水運などの交通路の支配も一族の収入源になっていたことがうかがえます。
16世紀になると越中氏、田中氏、朽木氏が一族の中でも力をもつようになり、16世紀中ごろの天文年間になると越中氏と田中氏は近江の守護(しゅご)の六角氏(ろっかくし)に、朽木氏は足利将軍に味方するようになります。そして、観音寺騒動(かんのんじそうどう)によって六角氏が勢力を弱める永禄(えいろく)年間(1558~70年)になると、湖北の浅井氏(あざいし)と同盟を結び、元亀元年(1570年)からの織田信長の近江侵攻をむかえることになりました。
清水山城と主郭の発掘調査
(写真)清水山城主郭発掘調査(礎石建物跡)の状況
清水山城は、主郭(しゅかく)を中心として南東・南西・北西の三方に伸びる尾根の上に曲輪(くるわ)(お城の中で建物が建てられたり、人が集まったりすることができる造成された平らなスペース)が並ぶ山城です。主郭の東面と北西にのびる尾根には畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)(山の等高線に対し直交して何本も掘られた(竪)堀とその土をもった土塁。)がつくられています。
平成8年度に行った主郭の発掘調査では、たくさんの土器とともに6間×5間の大規模な礎石建物(そせきたてもの)(石の上に柱をすえる建築様式)跡がみつかりました。出土した土器は、1550年~1570年頃の時期に集中しています。
『信長公記(しんちょうこうき)』には、「織田信長は元亀4年7月に高島に大船で出陣し、陸から木戸・田中両城を攻め、海からは大船を着け、馬廻(うままわり)(常に主人の周囲で護衛する騎馬の武士)を従えて攻めた。木戸・田中両城は、降参し明け渡した」と記されています。清水山城の主郭から出土した土器の最も新しいものは、この信長の高島郡攻略の時期とほぼ一致します。
清水山屋敷地と天台寺院・清水寺
山城の南側の斜面にひろがっている清水山遺跡には、「西屋敷(にしやしき)」や「東屋敷(ひがしやしき)」の地名とともに、南北約350メートル×東西約550メートルの範囲に土塁などによって一辺を約20メートルもしくは25メートルに規格された方形の区画が残っています。
西屋敷には大手道(おおてみち)(城の正面につけられた道)と推定される道が南北にのびていて、山城の南東に伸びる尾根の曲輪(くるわ)に続いています。この道のまわりには「ショウモンヤマ」「オウテ」「ダイモン」の地名が残っています。
西屋敷は、遺構の特徴から天台(てんだい)寺院 清水寺(せいすいじ)の寺坊(じぼう)群を屋敷としてのちに利用した可能性や寺院と城郭が一緒に存在していた可能性が指摘されていました。
城下の今市集落に所在する善林寺(ぜんりんじ)の千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)立像(高島市指定文化財)は、もとは清水寺にあったと伝えられています。
また文安4年(1447年)の古文書には、佐々木越中氏の家来とされる若党(わかとう)の八田氏や多胡氏、そして河内宮神主が、清水山にあったとされる清水寺の領地に侵入したことが記されています。もともと清水寺は西屋敷の最も高いところにあって、のちに大手道となる正面の道の両側に寺坊(じぼう)が並んでいたのではないかと推測されています。
御屋敷と犬馬場
清水山遺跡(屋敷地)が所在する丘陵の南東側には、「御屋敷(おやしき)」や犬追物(いぬおうもの)(中世に武士が馬上から矢を射る流鏑馬(やぶさめ)の練習のため、犬を的にして射る行事。)を開催した馬場とされる「犬馬場(いぬのばんば)」の地名が残っています。
明治6年の安養寺村の絵図には、犬馬場の地名とともに、まわりにに帯(おび)状の地割(土地の区画)をもつ一町(約100メートル)四方の区画が描かれています。地元の方から、昔、区画のまわりには土塁(どるい)(堀などを掘った土を盛り上げて、曲輪の縁などに盛り上げた土手。)や堀が残っていたことをお聞きすることができることから、方形の館(やかた)と推定されています。犬馬場の方形区画は、佐々木越中氏の館=御屋敷にともなう犬馬場と推測されています。
大手道は、西近江路沿いにある平井の集落から西に分かれ、この御屋敷・犬馬場の方形の区画の地域をとおり、西屋敷の地域をとおって山城の主郭(しゅかく)に至っていたと推定されています。
本堂谷遺跡と大宝寺
(写真)本堂谷遺跡の堀にかけられた土橋(どばし)
本堂谷遺跡(井ノ口館)は、清水山城、清水山屋敷地や御屋敷・犬馬場の地域と西谷川をはさんで西側にひろがる大宝寺山(だいほうじやま)の丘陵のゆるやかな斜面上に立地します。東西約350メートル×南北約200メートルの範囲に清水山屋敷地と同じような土塁(どるい)と堀で囲まれた方形の区画群が認められます。
遺跡内には「ジョウロウグチ」「エンショグラ」の地名が残っています。また、遺跡の南方にも「ハコヤマ」の地名が残っていて、かつて土塁(どるい)や堀で仕切られた地域がさらに南方にまで広がっていたました。
遺跡の西側には、佐々木高信(ささきたかのぶ)が佐々木氏の氏神を勧請(かんじょう)したと伝えられる大荒比古神社(おおあらひこじんじゃ)が鎮座(ちんざ)していて、この神社の例祭である七川祭(奴振(やっこぶり)が滋賀県選択無形民俗文化財)は、佐々木氏が出陣の際に12頭の流鏑馬(やぶさめ)と12基の的(まと)を献納(けんのう)したのが始まりとされています。
本堂谷遺跡は清水寺の寺坊(じぼう)と推定される清水山遺跡と遺構(いこう)の特徴が似ていることや、遺跡の東側が「大宝寺(だいほうじ)」の跡地と伝承されていることから、本堂谷遺跡も天台寺院の大宝寺の寺坊跡を利用したのではないか推測されています。
井ノ口の集落内にある保福寺の釈迦如来(しゃかにょらい)坐像(重要文化財)は、もとは大宝寺にあったと伝えられていて、大宝寺が織田信長の焼き討ちにあった時に、村人によって持ち出され、この寺に安置したとも伝えられています。
一方、清水山城の主郭(しゅかく)から南西方向にのびる谷は「城ノ谷」とよばれ、城の谷と西谷川がまじわる地点は「城の口」とよばれることから、清水山城の主郭と本堂谷遺跡を結ぶルートが考えられます。
これらのことから、本堂谷遺跡は、清水山城の出城(でじろ)としての性格や大宝寺と一緒に存在していた可能性も指摘されています。
清水山城と城下の集落
清水山城の城下は、推定される大手道が接続する西近江路に沿って南北に広がっていたと考えられています。
今市
城下の北の端になる今市は、西近江路と熊野山(清水山)を通って若狭(わかさ)にいたるルートの交わる地点に位置しています。明治6年の絵図には、西近江路に沿って、うなぎの寝床のような短冊形(たんざくがた)の地割(土地の区画)が連続して並んでいます。
今市の集落の氏神をまつる佐々木神社の竹馬祭(高島市指定文化財)は、清水山城主の佐々木氏との関わりを示す伝承が残っていて、子どもが竹馬にまたがって流鏑馬(やぶさめ)の神事を奉納します。
のちに織田信澄(おだのぶずみ)が築く大溝城下町には、新庄町、南市町、今市町の地名がみられ、城下町がつくられるのに際して高島郡内の町場(まちば)が移転されました。
新庄町は新庄城下の町場、南市町は安曇川南岸の田中の町場と推定され、今市町は清水山城下の町場である今市と考えられています。このことから、今市は、戦国時代の終わり頃には大溝城下町に招きよばれるほど発展した町場になっていたと想像されています。
川原市
今市とは対照的な集落が、街道の安曇川をわたる地点の北側にある川原市です。応永34年(1427)『宋雅道すがら之記(そうがみちすがらのき)』に、すでに「河原市」の名前がみえるほか、集落の中にある妙敬寺(みょうきょうじ)は、佐々木氏が建立したと伝えられ、境内(けいだい)には佐々木高信(ささきたかのぶ)の墓と伝えられる五輪塔(ごりんとう)が残っています。また、大荒比古神社(おおあらひこじんじゃ)は、もとは川原市の「大川原」にあったと伝えられていることなどから、佐々木氏との関係が古くから推定される市といえるでしょう。
七川祭における「神御供(みごく)の式」では、佐々木氏おかかええの鍛冶(かじ)の子孫と伝えられる「河原市鍛冶」の岡田家が正面に座り、ほかの集落とは異なる特別なあつかいを受けています。このことから川原市は、鎌倉時代から佐々木氏と密接な関係にあって、佐々木氏直属の職人集団が存在していたと考えられています。
安養寺
川原市の北に位置する安養寺の集落は、清水山屋敷地の「地蔵谷」にあったという伝承が残っていて、『高島郡誌』には織田信長が攻略した時に「清水山」から現在地に移転したと記されています。このことから集落の北側にある「新村」はこの時につくられたものであり、戦国時代の安養寺の集落は「新村」より南にひろがっていたと推測されています。
平井
大手道(おおてみち)が西近江路と交わる地点に位置する平井の集落には、佐々木越中氏の家来であった八田氏が住んでいたといわれています。また、明治6年の平井村の絵図には西近江路と街道から東西にのびる推定の大手道に沿ってブロック型の地割(土地の区画)がみとめられることから、武家屋敷群があったのではないかと推測されています。
アクセス
JR湖西線 新旭駅下車 徒歩15分で新旭森林スポーツ公園に。
スポーツ公園から徒歩30分で清水山城主郭に到着します。
(注意)史跡地内には、トイレはありませんので、公園内の施設等、他の公共施設をご利用ください。
更新日:2023年03月31日